津守吉祥

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名前
  • 氏(ウジ):津守【日本書紀】(つもり)
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:吉祥【日本書紀】さ)吉祥
生年月日
( ~ 斉明天皇5年7月3日)
没年月日
(斉明天皇7年5月23日 ~ )
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大山下だいせんげ【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条】
出来事
  • 斉明天皇5年7月3日

    小錦下坂合部石布連大山下津守吉祥連らの二船が呉・唐の路に遣わされた。
    己未年七月三日に難波の三津の浦から船出した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
    • 斉明天皇5年7月3日

      小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥を唐国に遣わした。
      そして道奥の蝦夷男女二人を唐の天子に見せた。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条】
    • 大唐に向った大使は島に触れて転覆した。副使は天子に拝謁して蝦夷を見せた。蝦夷は白鹿の皮一・弓三・箭八十を天子に献上した。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 難波吉士男人書曰】
  • 斉明天皇5年8月11日

    八月十一日に筑紫の六津の浦を出た。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年9月13日

    九月十三日に百済の南の辺の島に着いた。島の名は不明である。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年9月14日

    十四日の寅時午前3時から5時までの2時間。に二船は相従って大海に出た。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年9月15日

    十五日の日没に石布連の船は横から逆風に遭って南の海の島に漂着した。島の名は爾加委(にかい)という。そして島人に殺された。
    東漢長直阿利麻坂合部連稲積ら五人は島人の船に盗み乗って括州に逃げ着いた。州県の官人は洛陽の(みやこ)に送った。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年9月16日

    十六日の夜半に吉祥連の船は越州の会稽県の須岸山に着いた。東北の風が非常に強かった。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年9月22日

    二十二日に余姚県に着く。乗ってきた大船と諸々の調度物をそこに留め置いた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年10月1日潤十月一日とあるが、次が十月十五日であることと行程を鑑みて、潤は本来十月十五日の頭に付くものと判断した。

    潤十月一日に越州の州衙に着いた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年閏10月15日十月十五日を潤十月十五日の誤りと判断した。以下の十月も同様に潤十月とする。

    十月十五日に駅馬に乗って長安に入る。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年閏10月29日

    二十九日に東京(ひむかしのみやこ)洛陽に着いた。天子は東京にいた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年閏10月30日

    三十日に天子と面会して「日本国天皇は平安であるか」と尋ねられた。使人は「天地の徳を合せ、平安でございます」と謹しんで答えた。
    天子が「事を執る卿らも変わりないか」と尋ねると、使人は「天皇の恵み深く、変わりございません」と謹んで答えた。
    天子が「国内は平和であるか」と尋ねると、使人は「政治は天地に適い、万民は無事でございます」と謹んで答えた。
    天子が「これら蝦夷の国はどの方角にあるか」と尋ねると、使人は「国の東北にございます」と謹んで答えた。
    天子が「蝦夷は何種あるか」と尋ねると、使人は「三種ございます。遠い者を都加留(つかる)と名付け。次の者を麁蝦夷(あらえみし)、近い者を熟蝦夷(にきえみし)と名付けております。今ここにいますのは熟蝦夷でございます。毎年本国の(みかど)に入貢します」と謹んで答えた。
    天子が「その国に五穀はあるか」と尋ねると、使人は「ございません。肉を食して生活しております」と謹んで答えた。
    天子が「国に屋舎はあるか」と尋ねると、使人は「ございません。深山の中で木の下に住んでおります」と謹んで答えた。
    天子が重ねて言うには「朕は蝦夷の姿の珍しさを見て大変喜ばしくも怪しんでいる。使人は遠くからやってきて苦労であった。退出して館で休むがよい。後にまた相見えよう」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年11月1日

    十一月一日に朝廷で冬至の会があった。会の日にまた拝謁した。参朝する諸蕃の中で(やまと)の客人が最も勝れていた。後に出火騒ぎにより、また検められなかった。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
  • 斉明天皇5年12月3日

    十二月三日に韓智興の供人西漢大麻呂が我ら客人を讒言した。我らは唐朝から罪せられて流罪が決まった。
    先に智興が三千里の外に流された。
    客人の中に伊吉連博徳があり、奏上して罪を免れることとなった。
    事が後って勅旨があり、「我が国は来年必ず海の東の政をするであろう。汝ら倭の客は東に帰ることは許されない」と。
    遂に西京から出してもらえず、それぞれ別に幽閉された。戸を閉ざされ、自由が許されなかった。何年も苦しむこととなった。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
    • 智興の供人東漢草直足島に讒言されて使人らは寵命を受けられなかった。
      使人らの怨みは上天の神に通り、足島は落雷で死んだ。
      時の人は「大倭(やまと)の天の報いは早い」と称えた。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇6年9月12日

    九月十二日に客人を本国に放した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇6年9月19日

    十九日に西京長安。を発つ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇6年10月16日

    十月十六日に東京洛陽。に着く。初めて阿利麻ら五人に相見える。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇6年11月1日

    十一月一日に将軍蘇定方らに捉えられた百済王以下、太子ら諸王子十三人、大佐平沙宅千福国弁成以下三十七人、合せて五十人ばかりを朝堂に奉る為、にわかに引き連れて天子の所に赴いた。天子の恩勅により目の前で釈放された。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇6年11月19日

    十九日に労いを賜る。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇6年11月24日

    二十四日に東京洛陽。を発つ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇7年1月25日

    辛酉年正月二十五日に還して越州に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇7年4月1日

    四月一日に越州の上路に従い東に帰る。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇7年4月7日

    七日に檉岸山(ちょうがんさん)の南に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇7年4月8日

    八日の暁に西南の風に順い大海に船を出した。海上で路に迷い苦しんだ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇7年4月9日

    九日、八夜してどうにか耽羅の島に着いた。島人の王子阿波岐ら九人を招いた。使人の船に乗せて帝朝に献じることにした。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇7年5月23日

    五月二十三日、朝倉の朝に奉った。耽羅の入朝はこの時に始まる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】