善信尼
- 名前
- 善信尼【日本書紀】(ぜんしんに, ぜんしんのあま)
- 善信【日本書紀】(ぜんしん)
- 善信阿尼【日本書紀】(ぜんしんのあま)
- 嶋【日本書紀】(しま)島
- 嶋女【日本書紀】(しまめ)島女
- 性別
- 女性
- 生年月日
- 敏達天皇3年
- 没年月日
- (崇峻天皇3年3月1日 ~ )
- 親
鞍部司馬達等 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】
- 先祖
- 出来事
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敏達天皇3年敏達天皇十三年に十一歳。
誕生。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】 -
敏達天皇13年(9月 ~ 12月)
馬子宿禰は司馬達等の女の島を出家させて善信尼という。年十一歳。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】
また善信尼の弟子二人も出家させた。
その一は漢人夜菩の女の豊女。名を禅蔵尼という。
その二は錦織壼の女の石女。名を恵善尼という。
馬子は一人仏法に帰依して三人の尼を崇め敬った。
そして三人の尼を氷田直と達等に付けて衣食を供させた。
仏殿を邸宅の東方に造って弥勒の石像を安置した。
三人の尼を招いて大会 の設斎 仏教用語。食事の場を設けること。をした。
この時に達等が仏舎利を斎食 の上で見つけ、その舎利を馬子宿禰に献上した。
馬子宿禰は試しに舎利を鉄床 の上に置いて鉄鎚で打ってみた。
その鉄床と鉄鎚は砕けたが、舎利が砕けることはなかった。
また舎利を水に投げ入れてみると、舎利は心に願うままに浮き沈みした。
これにより馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等は仏法を深く信じて修行を怠らなかった。 -
敏達天皇14年3月30日
佐伯御室に捕われ法衣を奪われて
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】海石榴市 の馬屋で鞭打たれる。 -
用明天皇2年6月21日
善信阿尼らが大臣に言うには「出家の道は、戒を以って本とします。願わくは百済に行って、戒法を学び受けたいと思います」と。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月甲子条】 -
用明天皇2年6月
百済の調使が来朝する。
大臣が使人に言うには「この尼らを率いてお前の国に渡り、戒法を学ばせよ。終わったら返すように」と。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月是月条】
使人は「我らは国に帰り、まず国王に申し上げます。その後に出発しても遅くはないでしょう」と答えた。 -
崇峻天皇元年
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崇峻天皇3年3月
百済より帰還して
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇三年三月条】桜井寺 に住む。-
崇峻天皇3年3月
庚戌春三月、学問尼善信らが百済から帰還して桜井寺に住んだ。今の
【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】豊浦寺 である。初めは桜井寺といい、後に豊浦寺という「曽我大臣というのは豊浦大臣と云々」と続く。。
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