崇峻天皇
- 名前
- 漢風諡号:崇峻天皇(すしゅんてんのう, すしゅんてんわう)
- 和風諡号:泊瀨部天皇【日本書紀】(はつせべのすめらみこと)泊瀬部天皇
- 長谷部若雀天皇【古事記】(はつせべのわかさざきのすめらみこと)
- 泊瀨部皇子【日本書紀】(はつせべのみこ)泊瀬部皇子
- 長谷部若雀命【古事記】(はつせべのわかさざきのみこと)
- 長谷部之若雀命【古事記】(はつせべのわかさざきのみこと)
- 倉橋宮治天下長谷部天皇【上宮聖徳法王帝説】(くらはしのみやにあめのしたしろしめししはつせべのすめらみこと)
- 長谷部天皇【上宮聖徳法王帝説】(はつせべのすめらみこと)
- 倉橋天皇【上宮聖徳法王帝説】(くらはしのすめらみこと)
- 倉梯宮御宇天皇【先代旧事本紀】(くらはしのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 用明天皇2年4月9日)
- 没年月日
- 崇峻天皇5年11月3日
- 父
欽明天皇 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
- 母
小姉君 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
- 先祖
- 配偶者
- 妃:
小手子 【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇元年三月条】
- 妃:
- 子
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第32代
天皇
- 第32代
- 出来事
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第十五子である。
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 崇峻天皇即位前紀】
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- ・・・
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用明天皇2年4月9日用明記では丁未年四月十五日。
用明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】 -
用明天皇2年5月
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用明天皇2年6月7日
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用明天皇2年6月8日
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用明天皇2年6月21日
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用明天皇2年6月
百済の調使が来朝する。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月是月条】
大臣が使人に言うには「この尼らを率いてお前の国に渡り、戒法を学ばせよ。終わったら返すように」と。
使人は「我らは国に帰り、まず国王に申し上げます。その後に出発しても遅くはないでしょう」と答えた。 -
用明天皇2年7月
蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。
泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅らは軍勢を率いて、大連を討つために進発した。
大伴連噛・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣「闕名字」とある。らは軍兵を率いて、
志紀郡 から渋河の家に至った。大連は自ら子弟と
奴 の軍を率いて、稲城を築いて戦った。
大連は衣揩 地名。にある朴の木の枝の間に上り、雨のように矢を射た。
その軍は強く盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちの軍と群臣の軍は、怯え恐れて三度退いた。
この時に厩戸皇子は
瓢 のように髪を束ねて「古からの風俗で、年少の個、年十五、六の間は束髪於額(ひさごばな)にして、十七八の間は分けて角子(あげまき)にする。今もまた然り」とある。、軍の後に従っていた。
推し測って「もしかすると負けてしまうのではないか。願わずに成功は難しいであろう」と口にすると、白膠木 白膠木。此云農利泥。を斬り、すぐに四天皇像を作って髪の上に置いた。
そして誓いの言葉を発して「今もし我々が敵に勝つことが出来たら、必ずや護世四王 の為に寺塔を建てましょう」と。蘇我馬子大臣もまた誓いの言葉を発して「凡そ諸天王・大神王たちが我々を助け守って勝利を得ることが出来れば、願わくは諸天と大神王の為に寺塔を建てて三宝を伝えましょう」と。
誓いが終わると、様々な武器を備えて進撃した。ここに迹見首赤檮あり。
大連を枝の下に射落し、大連とその子らを殺した。これにより大連の軍は忽ちに敗れた。
兵士の悉くが黒衣を着て、広瀬 の勾原 で狩りをするふりをして散った。この役で、大連の子と一族は、或いは
葦原 に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者があれば、或いは逃亡先も知られぬ者もあった。時の人は「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹である。大臣は妄りに妻の計を用いて、大連を殺したのだ」と語り合った。
平乱の後、摂津国に
四天王寺 を建てた。
大連の奴の半数と家とを分けて、大寺の奴・田荘 とした。田一万代一代は百畝。を迹見首赤檮に賜った。
蘇我大臣もまた願いのままに、飛鳥の地に
法興寺 を起工した。
物部守屋大連の近侍捕鳥部万「万は名である」とある。は百人を率いて難波の家を守った。
しかし大連が敗れたと聞いて、馬に乗って夜逃げして茅渟県 の有真香邑 に向かった。
婦人の家を過ぎて、遂に山に隠れた。朝廷は議って「万は逆心を懐いている。それでこの山中に隠れた。早急に族を滅ぼすべきである。怠りの無いように」と。
万は着物が破れ垢が付いて憔悴していて、弓を持ち剣を帯びて自ら出て来た。
有司は百人の衛士を遣わして万を囲んだ。
万は驚いて竹やぶに隠れた。
縄を竹に繋いで引き動かすことで、自分の居場所を惑わした。
衛士らは竹が揺れているのを指差して「万はここにいる」と言って万に矢を放ったが、一つも当たらなかった。
衛士らは恐れて敢えて近づこうとしなかった。万は弓を下ろして腋に挟み、山に向かって走り去った。
衛士らは河を挟んで追って射掛けたが、皆当てることは出来なかった。
ここに一人の衛士があり、速く馳せて万の先を行った。河の側に伏せ、狙いを定めて膝に射当てた。
万はすぐに矢を抜き、弓を張って矢を放った。
地に伏せて叫んで言うには「万は天皇の御楯となり、その勇を表そうとしたが、問うては頂けず、翻ってこの窮地に陥ることになってしまった。共に語るべき者は来い。願わくは殺すのか虜りにするのかを聞きたいと思う」と。
衛士らは競い馳せて万を射たが、万は飛ぶ矢を払い防いで、三十人余りを殺した。
そして持っていた剣でその弓を三つに刻んだ。またその剣を折り曲げて河に投げ入れた。
別に小刀で頸を刺して死んだ。河内の国司は万が死んだ状況を確認して朝庭に報告した。
朝庭は苻 命令書。を下して言うには「八段に斬って八つの国に散らせて串刺しにせよ」と。
河内の国司は苻の旨に依り、串刺すときになって雷が鳴り大雨が降った。万は白犬を飼っていた。
伏しては仰ぎ、その屍の側を回って吠えた。
遂には頭を咥えて古い墓に収め置き、頭の側に横臥して飢え死んだ。河内の国司はその犬を怪しんで朝庭に報告した。
朝庭は哀れに堪えず、苻を下して「この犬は世に珍しい所である。後の世に示すべきである。万の族に命じて墓を作らせ葬るように」と。
これにより万の族は墓を有真香邑に建てて万と犬を葬った。河内の国司が言うには「
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】餌香川原 に斬殺された人があります。数えると数百になります。頭身は既に崩れ、姓字を知ることも出来ません。ただ衣の色を以ってその身を回収しております。ところが桜井田部連胆渟が飼う犬が頭を咥え続け、側に伏して固く守っておりました。自分の主人が墓に収まると起き上がって行ってしまいました」と。-
用明天皇2年(6月 ~ 7月)
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用明天皇2年8月2日
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用明天皇2年8月
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年八月是月条】倉梯 に宮を造る。-
【古事記 下巻 崇峻天皇段】倉椅柴垣宮 にて天下を治めること四年であった。
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崇峻天皇元年3月
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崇峻天皇元年
百済国が使いに併せて、僧の恵総・令斤・恵寔らを遣わして仏舎利を献上した。
百済国は恩率首信・徳率蓋文・那率福富味身らを遣わして
調 を進上した。
合わせて仏舎利、
僧の聆照律師・令威・恵衆・恵宿・道厳・令開ら、
寺工 の太良未太・文賈古子、
鑪盤博士 の将徳白昧淳、
瓦博士 の麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝弥、
画工 の白加を献上した。蘇我馬子宿禰は百済の僧らに請うて受戒の法を問うた。
善信尼らを百済国の使い恩率首信らに授け、学問させるために出発させた。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇元年是歳条】
飛鳥衣縫造 の祖樹葉の家を壊して、はじめて法興寺 を造った。
この地を飛鳥の真神原 と名付けた。または飛鳥の苫田 と名付けた。 -
崇峻天皇2年7月1日
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崇峻天皇3年3月
学問尼の善信らが百済より帰還して
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇三年三月条】桜井寺 に住んだ。 -
崇峻天皇3年10月
山に入って寺法興寺。同元年是歳条に見える。の用材を取る。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇三年十月条】 -
崇峻天皇3年
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崇峻天皇4年4月13日
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崇峻天皇4年8月1日
天皇は群臣に詔して「朕は任那を建てようと思う。卿らはどう思うか」と。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇四年八月庚戌朔条】
群臣は奏上して「任那の官家を建つべきこと、皆陛下の詔したまう所に同じです」と。 -
崇峻天皇4年11月4日
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崇峻天皇5年10月4日
山猪の献上があった。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月丙子条】
天皇が猪を指差して「いつかこの猪の頸を斬るように、朕が憎いと思う人を斬ろう」と詔した。
武器を多く備えて異常だった。 -
崇峻天皇5年10月10日
蘇我馬子宿禰は天皇の詔を聞いた。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月壬午条】
自分を憎んでいることを恐れ、一族を集めて天皇弑逆を謀った。 -
崇峻天皇5年10月
大法興寺の仏堂と歩廊を起工する。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月是月条】 -
崇峻天皇5年11月3日
馬子宿禰が群臣を騙して「今日、東国から調物が献上される」と言った。
そして東漢直駒「或る本に云わく、東漢直駒は東漢直磐井の子であるという」とある。を使って天皇を殺した。この日、天皇を
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条】倉梯岡陵 に葬った。-
崇峻天皇5年11月13日
壬子年十一月十三日に崩じた。
御陵は
【古事記 下巻 崇峻天皇段】倉椅岡上 にある。 -
崇峻天皇5年11月
倉橋天皇が天下を治めること四年。
【上宮聖徳法王帝説】
壬子年十一月に崩じた。
実は島大臣に滅ぼされた。
陵は倉橋岡 にある。
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崇峻天皇5年11月5日
早馬を筑紫の将軍の所に遣わして「内乱によって外事を怠ってはならない」と伝えた。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月丁未条】 -
崇峻天皇5年11月(3日 ~ 29日)
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