- 名前
- 氏(ウジ):紀【日本書紀】(き)
- 姓(カバネ):臣【日本書紀】(おみ)
- 名:男麻呂【日本書紀】(おまろ, をまろ)
- 紀男麻呂宿禰【日本書紀】(きのおまろのすくね, きのをまろのすくね)
- 紀臣男麻呂宿禰【日本書紀】(きのおみおまろのすくね, きのおみをまろのすくね)
- 紀臣麻呂宿禰【日本書紀】(きのおみまろのすくね)
- 生年月日
- ( ~ 欽明天皇23年7月29日)
- 没年月日
- (推古天皇3年7月1日 ~ )
- 出来事
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欽明天皇23年7月
欽明天皇は大将軍紀男麻呂宿禰を遣わして、兵を率いて
哆唎 から出発させた。
副将河辺臣瓊缶は居曽山 から出発した。
そして新羅が任那を攻めた状況を問責しようとした。遂に任那に至り、薦集部首登弭を百済に遣わして軍の計略を約束した。
登弭は妻の家に泊り、印書・弓箭を道に落としてしまった。
新羅はつぶさに軍の計略を知った。
にわかに大軍を起こすと次々に敗北して、降伏したいと申し出た。紀男麻呂宿禰は勝ちを得ると軍を率いて百済の軍営に入った。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年七月是月条】
軍中に令して「たとえ勝っても敗れることがあることを忘れてはならない。安全でも必ず危険を考慮することは古からの善い教えである。今いる場所は山犬と狼が交わるような場所である。軽率なことをして後難を忘れてはならない。また平安の世でも刀剣は手離してはならない。君子の武備は怠ってはならない。深く警戒して、この令を務めるように」と。
士卒は心服した。 -
用明天皇2年7月
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崇峻天皇4年11月4日
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崇峻天皇5年11月3日
崇峻天皇が暗殺される。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条】 -
崇峻天皇5年11月5日
朝廷が早馬を筑紫の将軍の所に遣わして「内乱によって外事を怠ってはならない」と伝える。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月丁未条】 -
推古天皇3年7月
将軍らが筑紫から引き上げる。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年七月条】
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