- 名前
- 惠慈【日本書紀】(えじ, ゑじ)恵慈
- 慧慈【日本書紀】(えじ, ゑじ)
- 慧慈法師【上宮聖徳法王帝説】(えじほうし, ゑじはふし)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 推古天皇元年4月10日)
- 没年月日
- 推古天皇30年2月5日
- 出来事
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推古天皇元年4月10日
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推古天皇3年5月10日
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年五月丁卯条】高麗 僧恵慈が帰化して皇太子の師となる。-
上宮王は高麗の慧慈法師を師とした。
王命 はよく涅槃常住 ・五種仏性 の理 を悟り、法花三車 ・権実二智 の趣を明かに開き、維摩 の不思議解脱 の宗に通達した。
また経部 ・薩婆多 両家の弁を知り、また三玄五経 の旨を知り、並びに天文・地理の道を照らした。
そして法花などの経疏 七巻を造り、名付けて上宮御製疏 という。太子の問う所の義に、師に通じない所があった。
【上宮聖徳法王帝説】
太子は夜に夢を見た。金人がやってきて解せなかった義を教えた。
太子は目覚めた後に解した。そして師に伝え、師もまた領解した。
このような事は一度や二度ではなかった。
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推古天皇3年
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推古天皇4年11月
法興寺が落成する。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇四年十一月条】
この日、恵聡と共に法興寺に住む。 -
推古天皇23年11月15日
帰国の途に就く。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十三年十一月癸卯条】-
【上宮聖徳法王帝説】上宮御製疏 を齎 し、本国に帰還して流伝した。
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推古天皇29年2月5日
皇太子厩戸豊聡耳皇子命が
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月癸巳条】斑鳩宮 で薨じる。-
推古天皇30年2月22日
壬午年二月廿二日夜半に聖王が薨逝する。
【上宮聖徳法王帝説】
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推古天皇29年2月(5日 ~ 29日)
上宮太子が
磯長陵 に葬られる。この時、高麗僧慧慈は上宮皇太子が薨じたことを聞いて大いに悲しみ、皇太子の為に僧を集めて設斉した。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月是月条】
自ら経を説く日に誓願して「日本国に聖人あり。上宮豊聡耳皇子という。天に許され、はるかな聖の徳を持って日本の国に誕生した。三統 を越えるほどに、先の聖の仕事を受け継ぎ、三宝を慎んで敬い、人民を苦しみから救った。これは真の大聖である。太子は既に薨じ、私は国が異なるが、絆の強さは金を断つほどである。独りで生きていても何の意味もない。私は来年二月五日に必ず死ぬ。そして上宮太子に浄土で再会して、共に衆生に教えを広めよう」と。-
慧慈法師はこれを聞いて
【上宮聖徳法王帝説】王命 の為に経を講じ、発願して「上宮の聖に必ず逢おうと思う。吾れ慧慈は来年二月廿二日に死んで、必ず聖王に逢って側で浄土に奉る」と。
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推古天皇30年2月5日
約束の日に死んだ。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月是月条】
時の人は誰もが「上宮太子だけが聖ではなく、慧慈もまた聖である」と言った。-
推古天皇31年2月22日
発病して命を終えた。
【上宮聖徳法王帝説】
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