鞍作鳥

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名前
  • 氏(ウジ):鞍作【日本書紀】(くらつくり)
  • 名:鳥【日本書紀】り)
  • 司馬鞍首止利【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】(しばくらつくりおびとり)
生年月日
( ~ 推古天皇13年4月1日)
没年月日
(推古天皇14年5月5日 ~ )
  • 鞍部多須奈くらつくりのたすな【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年五月戊午条】
先祖
  1. 鞍部多須奈
    1. 鞍部司馬達等
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大仁だいにん【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年五月戊午条】
出来事
  • 推古天皇13年4月1日

    天皇皇太子大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願を発てて、はじめて(あかがね)(ぬいぎぬ)の丈六の仏像を各一躯造った。
    そして鞍作鳥に命じて造仏の(たくみ)とした。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年四月辛酉朔条】
  • 推古天皇14年4月8日

    銅・繍の丈六の仏像が完成する。

    この日に丈六の銅像を元興寺(がんこうじ)の金堂に置こうとしたが、仏像が金堂の戸より高くて堂に入らなかった。
    そこで諸工人等らが相談して「堂の戸を壊して入れよう」と言った。
    しかし鞍作鳥が秀れた(たくみ)なのは、戸を壊さずに堂に入れたことである。

    即日設斎した。
    参集した人々は数えきれないほどだった。
    この年より初めて、寺ごとに四月八日灌仏会。七月十五日盂蘭盆会。に設斎する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年四月壬辰条】
  • 推古天皇14年5月5日

    推古天皇が鞍作鳥に勅して「朕は内典(うちつのり)を興隆させたいと思い、まさに仏刹(ぶっせつ)を建てようとして舎利(しゃり)を求めた。時にお前の祖父司馬達等はすぐに舎利を献上した。また国に僧尼が無かった。そこでお前の父多須那橘豊日天皇用明天皇。の為に出家して仏法を恭敬した。またお前の(おば)島女が出家して、諸々の尼の導者として釈教(ほとけのみのり)を修行させた。朕は丈六の仏を造るために良い仏像を求めた。お前の献上した仏の原図は朕の心に適っていた。また仏像が完成したが堂に入らなかった。諸工人は諦めて堂の戸を壊そうとしたが、お前は戸を壊さずに入れることが出来た。これらは全てお前の功である」と。
    そして大仁の位を賜った。
    近江国の坂田郡(さからのこおり)の水田二十町を賜った。
    鳥はこの田を以って天皇の為に金剛寺(こんごうじ)を建てた。これは今南淵(みなぶち)坂田尼寺(さかたのあまでら)という。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年五月戊午条】
  • 法興崇峻天皇四年を元年とする年号。元丗一年、辛巳年十二月推古天皇29年12月。鬼前太后が崩じた。
    明くる年の正月廿二日推古天皇30年1月22日。上宮法皇が病に枕した。
    干食王后も看病に労して倒れてしまった。
    時に王后・王子たち及び諸臣は深く愁毒を懐き、共に発願して「仰いで三寳に依り、まさに王身の寸法の釈像を造るべきである。この願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住しますように。もしこれが定業にして世に背くのであれば、浄土に登り、早く妙果に昇りますように」と。

    二月廿一日癸酉推古天皇30年2月21日。王后は即世した。
    翌日推古天皇30年2月22日。法皇は登遐した。

    癸未年三月推古天皇31年3月。中頃に、願いの如く慎んで釈迦尊像・侠侍(きょうじ)、及び荘厳具(しょうごんぐ)を造り終えた。
    この微福に乗じて、道を信じる知識は、現在は安隠に、生を出て死に入れば、三主に随奉し、三宝を紹隆し、遂に彼堓を共にする。
    六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを得て、同じく菩提に趣くように。


    司馬鞍首止利仏師に造らせた。

    【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】