吉士倉下
- 名前
- 吉士倉下【日本書紀】(きしのくらじ)
- 生年月日
- ( ~ 推古天皇30年11月30日)
- 没年月日
- (推古天皇30年11月1日 ~ )
- 出来事
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推古天皇30年当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。
新羅が任那を討った。任那は新羅に附属した。
天皇は新羅を討とうとした。
大臣に謀り、群卿に問うた。
田中臣が答えて言うには「討伐を急ぐのは良くないと存じます。先ずは状況を察し、逆らったことがはっきりした後に討伐しても遅くはないでしょう。試しに使いを遣わして消息を調べさせて頂きたいと存じます」と。
中臣連国が言うには「任那は元々我が国の官家 であり、新羅が攻めて奪ったのです。戦備を整えて新羅を征伐し、任那を取り返して百済に附属させましょう。新羅から奪い返すことに勝ることがありましょうか」と。
田中臣が言うには「そうではない。百済は反覆の多い国である。道の間すらも欺くのだ。凡そ彼らの言葉は信じられない。よって百済に附属させてはならない」と。
このようにして征討は果たせなかった。そこで吉士磐金を新羅に遣わし、吉士倉下を任那に遣わして任那の事を問わせた。
新羅国主は八大夫を遣わして、新羅国の事を磐金に説明した。
また任那国は倉下に説明した。
そして約束して言うには「任那は小国ですが天皇に附属しています。どうして新羅がたやすく得ることが出来ましょうか。いつも通り内官家 と定め、どうか煩いとはなさりませんように」と。そこで奈末智洗遅を遣わして吉士磐金を副えた。
また任那人達率奈末遅を吉士倉下に副えて両国の調を奉った。しかし磐金らが帰還しないうちに、その年に大徳境部臣雄摩侶・小徳中臣連国を大将軍とし、小徳河辺臣禰受・小徳物部依網連乙等・小徳波多臣広庭・小徳近江脚身臣飯蓋・小徳平群臣宇志・小徳大伴連「闕名」とある。・小徳大宅臣軍を副将軍とし、数万の兵を率いて新羅を征討させた。
時に磐金らは共に港に集まり、出航するために風波の様子をうかがった。
船軍は海に満ちた。
両国の使人はこれを遠くから眺めて愕然とした。そして引き返して堪遅大舎を代わりに任那の調の使いとして奉った。磐金らが相談して「軍を起こせば前の約束に背いてしまう。こうなっては任那の事を成すことは出来ない」と言うと、出航して帰国した。
ただ将軍らは任那に至り、相談して新羅を襲撃しようとした。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年是歳条】
新羅国主は軍勢が多いと聞いて降伏を願い出た。
将軍らは共に議って上表した。天皇はこれを許した。 -
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磐金・倉下らが新羅から帰国した。
大臣がその状況を尋ねた。
答えて「新羅は命を承り恐懼しておりました。そして専使に命じて両国の調を奉りました。しかし船軍が来るのを見て朝貢の使者はまた帰還してしまいました。ただ調は献上します」と。
大臣は「惜しいことをした。早く軍勢を遣わしたことは」と言った。
時の人が言うには「この軍事は境部臣と阿曇連が先に新羅の賄賂を多く受け取った為、大臣に勧めたのだ。それで使いの旨を待たずに征伐を急いだのだ」と。はじめ磐金らが新羅に渡る日、港に至るころに
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年十一月条】荘船 一艘が海の浦で出迎えた。
磐金が「この船はどこの国の迎船か」と問うと、「新羅の船です」と答えた。
磐金はまた「どうして任那の迎船が無いのか」と言った。
この時に任那の為に一艘加えた「新羅が二艘の迎船を用いるのは、この時に始まるか」とある。。
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