裴世清
- 名前
- 裴世淸【日本書紀】(はいせいせい)裴世清
- 斐世淸校異【日本書紀】(ひせいせい)斐世清
- 裴世請校異【先代旧事本紀】(はいせいせい)
- 生年月日
- ( ~ 608年6月17日)
- 没年月日
- (608年10月25日 ~ )
- 出来事
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608年(5月20日 ~ 6月17日)
遣隋使の小野臣妹子に随行して隋を出国する。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年四月条】 -
608年(5月20日 ~ 8月1日)
筑紫に着く。
難波吉士雄成に難波まで案内される。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年四月条】 -
608年8月1日
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608年9月17日
入京して
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年八月癸卯条】海石榴市 の路上で飾騎 七十五匹に迎えられる。
額田部連比羅夫が礼辞を述べた。 -
608年9月26日
朝庭が隋客を召して、使いの旨を奏上させた。
阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人に客の案内をさせた。
隋国の信物を庭中に置いた。
使主裴世清は自ら書を持って両度再拝して、使いの旨を言上して立った。
その書に曰く「皇帝から倭皇 に送る。使人の長吏大礼蘇因高らは詳しく思いを伝えてくれた。朕は天命を歓び承って天下に臨んでいる。徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。愛育の情に遠近の隔たりは無い。皇は海外にあって民を安撫して国内を安楽にし、風俗を融和し、深い至誠があり、遠く朝貢することを知った。その誠意を朕は喜びとする。ようやく暖かくなってきたので、鴻臚寺 の掌客裴世清らを遣わした経緯を述べ、あわせて送り物をすることは別のとおりである」と。阿倍臣が庭に出てその書を受けて進み出ると、大伴囓連が迎え出て書を承り、大門の前の机の上に置いて奏上した。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年八月壬子条】
事が終ると退いた。 -
608年9月30日
朝廷で饗応を受ける。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年八月丙辰条】 -
608年10月19日
難波の
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年九月乙亥条】大郡 で饗応を受ける。 -
608年10月25日
隋客裴世清が帰国することとなり、また小野妹子臣を
大使 とし、吉士雄成を小使 とし、福利を通事 通訳。とし、隋客に副えて遣わす。天皇は隋帝に謝辞を述べた。その辞にいうには「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人、
鴻臚寺 の掌客裴世清らが訪れ、久しく求めていた思いが解けました。このごろはようやく涼しくなりました。尊 隋の煬帝を指す。はいかがお過ごしでしょうか。穏やかにお過ごしでしょうか。こちらは無事です。いま大礼蘇因高・大礼乎那利らを遣わし、不具ではありますが謹しんで申し上げます」と。この時に隋へ遣わしたのは、学生の倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大国、学問僧の新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人広斉ら、合わせて八人である。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年九月辛巳条】
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