観勒
- 名前
- 觀勒【日本書紀】(かんろく, くゎんろく)観勒
- 觀勒僧【日本書紀】(かんろくほうし, くゎんろくほふし)観勒僧
- 觀勒僧正【上宮聖徳法王帝説】(かんろくそうじょう, くゎんろくそうしゃう)観勒僧正
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 602年11月19日)
- 没年月日
- (623年5月21日 ~ )
- 出来事
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602年(10月21日 ~ 11月19日)
百済僧観勒が来朝して、暦の本及び天文・地理書、併せて遁甲・方術の書を献上する。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年十月条】
この時に書生三、四人を選び、観勒に従い学習させた。
陽胡史 の祖玉陳は暦法を習った。
大友村主高聡は天文・遁甲を学んだ。
山背臣日並立は方術を学んだ。
皆学んで業を成した。-
(602年1月29日 ~ 603年2月15日)
観勒僧正は推古天皇即位十年壬戌知恩院本は「成」としているが「戌」に改めた。に来た。
【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
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623年5月7日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。
一人の僧があり、斧で祖父を打った。
これを聞いた天皇は大臣を召すと、詔して「出家する者はひたすらに三宝に帰して戒法を保つというのに、なぜ容易に悪逆を犯すのか。聞くところによると、僧が祖父を打ったという。全ての寺の僧尼を集めて推問せよ。もし事実ならば重罪とする」と。
それで僧尼を集めて推問した。
そして悪逆な僧尼を集めて罰した。百済の観勒僧が上表して言うには「仏法は西国から漢にやってきて三百年が経った後に百済国に伝わりました。僅か百年でございます。我が王は日本の天皇の賢哲を聞いて、仏像と内典を献上しました。まだ百年に満たないのでございます。それで今は僧尼が法律に慣れておらず、容易に悪逆を犯してしまうのでしょう。ですので多くの僧尼は惶懼して、なすべきことを如らないのでございます。どうかその悪逆な者を除き、それ以外の僧尼は全て罪になさらぬようお願い致します。これは大きな功徳になります」と。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月戊申条】
天皇は聞き入れた。 -
623年5月17日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。
推古天皇が詔して「道人でも法は犯してしまう。どのようにして俗人を諭せばよいか。今後は
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月戊午条】僧正 ・僧都 を任命して、僧尼を統べることとする」と。 -
623年5月21日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。
僧正となる。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月壬戌条】
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