609年5月12日
筑紫の大宰(おおみこともち)が奏上して「百済僧道欣・恵弥を首として十人原文は「一十人」、俗人七十五人が肥後国の葦北津(あしきたのつ)に停泊しています」と。 この時に難波吉士徳摩呂・船史竜を遣わして「どうして来たのか」と問うと、答えて「百済王の命で呉国(くれのくに)に遣わされましたが、その国に乱があって入ることが出来ず、本国に帰ろうとすると、急な暴風に逢って海上を漂うことになってしまいました。しかし大きな幸があり、聖帝の国の辺境に停泊できました。喜んでおります」と言った。
609年6月23日
徳摩呂らが復命した。 そして徳摩呂・竜の二人を百済人らに副えて本国に送り届けた。 対馬に至り、道人ら十一人原文は「十一」だが、同年四月庚子条では「一十人」とする。皆が留まることを願い、上表して留まることになった。 それで元興寺(がんこうじ)に住まわせた。