天武天皇元年6月24日
大海人皇子が大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩らを留守司高坂王のもとに遣わして駅鈴を求めさせた。 そして恵尺らに言うには「もし鈴を得られなければ志摩は帰還して報告せよ。恵尺は急いで近江に行って高市皇子・大津皇子を呼んで伊勢で合流せよ」と。
恵尺らは留守司のもとに行き、東宮の命を告げて駅鈴を高坂王に求めたが許されなかった。 恵尺は近江に行った。 志摩は帰還し復命して「鈴は得られませんでした」と。
天武天皇元年6月(24日 ~ 25日)
大津皇子と合流して伊勢に向う途中、鈴鹿関(すずかのせき)で足止めを食う。
天武天皇元年6月26日
大海人皇子の命を受けた路益人に従い、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のほとりで大海人皇子一行と合流する。
大分君恵尺が病にかかって死期が迫った。 天皇は大いに驚いて詔して「恵尺よ。お前は自分を捨てて公に向い、身命を惜しまなかった。雄々しい心を持って大戦で戦功を立てた。常にお前のことを思っていたが、お前がもし死んでしまっても子孫を厚く賞する」と。 そして外小紫の位に上げた。