越の人江渟臣裾代が都に参って奏上して「高麗の使人が風浪に苦しんで港を見失い、水に任せて漂流して岸に着きました。郡司が隠匿しておりますので私がご報告致します」と。
欽明天皇が詔して「朕が帝業を承って数年、高麗が迷って初めて越の岸に着いた。漂流して苦しんだが命は助かった。良い政治が広く行き渡り、徳は大いに盛り、慈しみの教化はあまねく通い、大きな恩が果てしなく広がっているからではないであろうか。有司は山背国の相楽郡に館を建てて、厚く助け養うように」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年四月乙酉条】