蘇我馬子

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名前
  • 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】が)
  • 名:馬子【日本書紀】(うま
  • 名:馬古【上宮聖徳法王帝説】(うま
  • 蘇我馬子宿禰【日本書紀】うますくね)
  • 蘇我馬子大臣【日本書紀】(そがのうまこのおおおみ, うまおほお
  • 馬子宿禰大臣【日本書紀】(うまこのすくねのおおおみ, うますくねおほお
  • 馬子宿禰【日本書紀】(うますくね)
  • 蘇我大臣馬子宿禰【日本書紀】(そがのおおおみうまこのすくね, おほおうますくね)
  • 蘇我馬子宿禰大臣【日本書紀】(そがのうまこのすくねのおおおみ, うますくねおほお
  • 馬子大臣【日本書紀】(うまこのおおおみ, うまおほお
  • 嶋大臣【日本書紀】(しまのおおおみ, しまおほお)島大臣
  • 蘇我嶋大臣【日本書紀】(そがのしまのおおおみ, しまおほお)蘇我島大臣
  • 蘇我馬古叔尼大臣【上宮聖徳法王帝説】(そがのうまこのすくねのおおおみ, うますくねおほお, そがのうまこのすくにのおおおみ, うますくにおほお
  • 宗我馬子宿禰【上宮聖徳法王帝説】うますくね)
  • 巷宜汙麻古大臣【聖徳太子平氏伝雑勘文】そがのうまこのおおおみ, そがうまおほお「巷奇、蘇我也」とある。
  • 宗我馬背宿禰「武内宿祢六世孫宗我馬背宿祢」とあるが、武内宿禰四世孫かつ馬子の祖父にあたる馬背と混同したか。馬子が馬背を名乗っていた可能性も捨てられない。【新撰姓氏録抄】うませすくね)
キーワード
  • 後裔は右京御炊朝臣(みかしきのあそみ)第一帙第四巻右京皇別上の御炊朝臣条に「武内宿禰六世孫宗我馬背宿禰之後也」とある。【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 敏達天皇元年4月30日)
没年月日
推古天皇34年5月20日
  • 蘇我稲目そがのいなめ【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年五月丁未条】
先祖
  1. 蘇我稲目
    1. 蘇我馬背
      1. 蘇我韓子
  2. unknown
配偶者
  • 太媛ふとひめ日本書紀では「物部守屋の妹」とあるのみ。【紀氏家牒逸文】
  • 善徳臣ぜんとこのおみ【日本書紀 巻第二十二 推古天皇四年十一月条】【母:不明】
  • 蘇我倉麻呂そがのくらまろ【母:不明】
  • 蘇我蝦夷そがのえみし【紀氏家牒逸文】【母:太媛ふとひめ
  • 河上娘かわかみのいらつめ【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月是月条】【母:不明】
  • 刀自古郎女とじこのいらつめ【上宮聖徳法王帝説】【母:不明】
  • 法提郎媛ほてのいらつめ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【母:不明】
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大臣おおおみ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月是月条】
出来事
  • 敏達天皇元年4月3日

    敏達天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月甲戌条】
  • 敏達天皇元年4月(3日 ~ 30日)

    大臣となる。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月是月条】
  • 敏達天皇元年5月1日

    天皇は皇子と大臣に「高麗の使人は今何処に居るか」と問うた。
    大臣は「相楽館(さがらかのむろつみ)に居ります」と答えた。
    天皇はこれを聞いて傷むこと甚だしかった。
    悲しみ嘆いて言うには「悲しいことだ。この使人らは既に名を先の天皇に申し上げているというのに」と。
    そして郡臣を相楽館に遣わして、献上する調物を記録して京師(みやこ)に送らせた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年五月壬寅朔条】
  • 敏達天皇元年5月15日

    天皇は高麗の国書を執って大臣に授け、諸々の(ふびと)を召し集めて読み解かせた。
    この時、諸々の史は三日の内に読み解くことは出来ず、船史(ふねのふびと)の祖王辰爾が読み解いて奉った。
    これにより天皇と大臣は褒め讃えて「よく勤めてくれた。辰爾よ。お前がもし学ぶことに親しんでいなければ、誰が読み解くことが出来たであろうか。今から始めて殿中に近侍するように」と。
    東西の諸々の史に詔して「お前たちの習業は何故か足りない。お前たちは数が多くとも辰爾には及ばない」と。

    また高麗が上表した国書は烏の羽に書いてあった。
    文字は黒い羽に紛れて読める者はいなかった。
    そこで辰爾は羽を飯の気で蒸して、(ねりきぬ)柔らかくした上等の絹布。を羽に押してその文字を全て写した。
    朝廷の人は皆が驚いた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年五月丙辰条】
  • 敏達天皇3年10月9日

    天皇は蘇我馬子大臣を吉備国に遣わして、白猪屯倉(しらいのみやけ)田部(たべ)屯倉の農民。の数を増やした。
    田部の名籍(なのふみた)白猪史胆津に授けた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年十月丙申条】
  • 敏達天皇4年2月朔日が壬辰は無理筋。前後の記事、正月・四月の朔日は理に適っている。朔が無い写本あり。

    京師(みやこ)に帰還して屯倉の事同三年十月丙申条。を復命する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月壬辰朔条】
  • 敏達天皇4年2月同年正月の朔日が丙辰で合ってるすると、二月乙丑を実現させるには閏正月が必要。さらに四月の乙酉が朔日で合ってるすると、二月か三月に閏月を入れなければならない。さすがに無理筋。

    敏達天皇は新羅が未だに任那を復建しないので、皇子と大臣に詔して「任那の事は怠ることのないように」と。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月乙丑条】
  • 敏達天皇13年9月

    百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)「闕名字」とある。弥勒(みろく)の石像一躯をもたらし、佐伯連(さえきのむらじ)「闕名字」とある。が仏像一躯をもたらした。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年九月条】
  • 敏達天皇13年(9月 ~ 12月)

    蘇我馬子宿禰はその仏像二躯同九月条。を請い、そして鞍部村主司馬達等池辺直氷田を四方に遣わして修行者を探させた。
    播磨国にて僧で還俗した者を得た。名は高麗恵便。大臣は師とした。

    司馬達等の女のを出家させて善信尼という。年十一歳。
    また善信尼の弟子二人も出家させた。
    その一は漢人夜菩の女の豊女。名を禅蔵尼という。
    その二は錦織壼の女の石女。名を恵善尼という。
    馬子は一人仏法に帰依して三人の尼を崇め敬った。
    そして三人の尼を氷田直達等に付けて衣食を供させた。
    仏殿を邸宅の東方に造って弥勒の石像を安置した。
    三人の尼を招いて大会(だいえ)設斎(おがみ)仏教用語。食事の場を設けること。をした。
    この時に達等が仏舎利を斎食(いもい)の上で見つけ、その舎利を馬子宿禰に献上した。
    馬子宿禰は試しに舎利を鉄床(かなとこ)の上に置いて鉄鎚で打ってみた。
    その鉄床と鉄鎚は砕けたが、舎利が砕けることはなかった。
    また舎利を水に投げ入れてみると、舎利は心に願うままに浮き沈みした。
    これにより馬子宿禰・池辺氷田司馬達等は仏法を深く信じて修行を怠らなかった。
    馬子宿禰はまた石川の邸宅に仏殿を造った。

    仏法の初めはこれより興った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】
  • 敏達天皇14年2月15日

    大野丘(おおののおか)の北に塔を建てて大会(だいえ)設斎(おがみ)仏教用語。食事の場を設けること。をした。
    以前に達等が見つけた舎利を塔の心柱に納めた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月壬寅条】
  • 敏達天皇14年2月24日

    蘇我大臣が病を患った。
    卜者(うらべ)に問わせると「父の時に祭った仏神の御心に祟られています」と答えた。
    大臣はすぐに子弟を遣わして、その占いの結果を奏上した。
    詔して「卜者の言葉に従って父の崇めた神を祀るように」と。
    大臣は詔を承り、石像を敬い拝んで寿命を延ばすように乞うた。

    この時に国に疫病が起り、民に死者が多かった。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月辛亥条】
  • 敏達天皇14年3月1日

    物部弓削守屋大連中臣勝海大夫が奏上して「どうして臣の言葉をお用いになられないのでございますか。先の天皇欽明天皇。から陛下に及ぶまで、疫病が流行して国民が絶えようとしておりますのは、蘇我臣が仏法を広めたことによるものではないでしょうか」と。
    詔して「明白である。仏法を断つように」と。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丁巳朔条】
  • 敏達天皇14年3月30日

    物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、胡床にあぐらをかき、その塔同年二月壬寅に蘇我馬子が大野丘(おおののおか)の北に建てた塔。を斬り倒させて火を点けて焼いた。あわせて仏像と仏殿を焼いた。
    焼け残った仏像は拾って難波の堀江に棄てさせた。

    この日、雲が無いのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣を着た。
    馬子宿禰とそれに従う僧侶を責めて非難の心を生じさせた。
    そして佐伯造御室、またの名は於閭礙を遣わして、馬子宿禰の供養する善信らの尼を呼んだ。
    馬子宿禰は敢えて命に違えることはせず、慟哭しながら尼を御室に渡した。
    有司は忽ちに尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち)の馬屋で鞭打った。


    天皇は任那再建を思い、坂田耳子王を使いとした。
    この時に天皇と大連が急に疱瘡を患った。それで派遣は果たされなかった。
    橘豊日皇子に詔して「先の天皇の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と。

    また疱瘡を発して死ぬ者が国に満ちた。その疱瘡の患者は「身は焼かれ被打たれ砕かれるようだ」と言って泣きながら死んだ。
    老いも若いも「これは仏像を焼いた罪であろうか」と密かに語り合った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】
    • 物部弓削守屋大連大三輪逆君中臣磐余連は仏法を滅ぼそうと謀り、寺・塔を焼いて仏像を棄てようとしたが、馬子宿禰が言い争ってさせなかったという。

      【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年六月条 或本云】
  • 敏達天皇14年6月

    馬子宿禰が奏上して「私の病が今も治りません。三宝の力を蒙らずに治すことは困難でございます」と。
    馬子宿禰に詔して「お前一人で仏法を行いなさい。他の者は行ってはならない」と。
    そして三人の尼を馬子宿禰に返した。
    馬子宿禰はこれを受けて喜んだ。
    珍しいことだと感嘆して三人の尼を地に頭をつけて拝んだ。
    新に精舎を造り、迎え入れて供物を捧げた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年六月条】
  • 敏達天皇14年8月15日

    天皇は病が重くなり大殿で崩じた。
    この時に殯宮を広瀬(ひろせ)に建てた。

    馬子宿禰大臣は刀を佩いて(しのびごと)を奉った。
    物部弓削守屋大連が嘲笑って「大きい矢で射られた雀のようだ」と言った。
    次に弓削守屋大連が手足を震わせて誄を奉った。
    馬子宿禰大臣が笑って「鈴を掛けるべきだな」と言った。
    これにより二臣に怨恨が生じ始めた。

    三輪君逆は隼人を使って殯の庭に置いて守らせた。
    穴穂部皇子は皇位を欲していて、憤って「なぜ死んだ王に仕え、生きている王には仕えないのだ」と大声を発した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年八月己亥条】
  • 敏達天皇14年9月5日

    用明天皇が即位する。

    蘇我馬子宿禰を大臣物部弓削守屋連大連とすることは元の通りであった。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月戊午条】
  • 用明天皇元年5月

    穴穂部皇子炊屋姫皇后を犯そうとして自ら強行に殯宮に入ろうとした。
    寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。

    穴穂部皇子は「誰がここにいるのか」と問うた。
    衛兵は「三輪君逆がいます」と答えた。

    七度「門を開けよ」と叫んだが、遂に聞き入れられなかった。

    穴穂部皇子が大臣と大連に言うには「は甚だ無礼である。殯宮の庭で(しのびごと)を読んで『朝庭を荒らさぬよう鏡の面のようにお浄めし、臣がお仕え奉ります』と申した。これは無礼である。天皇の子弟は多くいて両大臣もいる。誰が勝手にお仕え奉るなど言うことが出来ようか。また余が殯の内を見ようと思っても、拒んで入れようとしない。私が『門を開けよ』と七度叫んだが応じることもなかった。是非とも斬り捨てたい」と。
    両大臣は「仰せのままに」と答えた。
    穴穂部皇子は密かに天下の王となる事を謀り、偽って逆君を殺そうとした。

    遂に物部守屋大連と兵を率いて磐余の池辺を包囲した。
    逆君は気付いて三諸の岳に隠れた。

    この日の夜半に密かに山を出て後宮「炊屋姫皇后の別の宮をいう。これの名を海石榴市宮(つばきいちのみや)という」とある。に隠れた。

    と同姓である白堤横山逆君の居場所を密告した。
    穴穂部皇子守屋大連を遣わして「或る本に云うには、穴穂部皇子と泊瀬部皇子が計画して守屋大連を遣わしたという」とある。言うには「お前が行って逆君とその二子を討て」と。
    大連は遂に兵を率いて出発した。

    蘇我馬子宿禰はその計画を伝え聞き、皇子の所に行って「皇子の家の門をいう」とある。で会った。
    大連の所へ行こうとしていたので「王者は刑人を近づけません。自ら行かれてはなりません」と諫めた。
    皇子は聞かずに行ってしまった。馬子宿禰はやむなく随行した。

    磐余(いわれ)に至り切に諌めた。
    皇子は諫言に従い停止した。そしてそこで胡床にあぐらをかいて大連を待った。

    大連はしばらくしてやってきた。兵を率いて「らを斬り終えました「或る本に云うには、穴穂部皇子が自ら行って射殺したという」とある。」と復命した。
    馬子宿禰は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言った。
    これを聞いた大連は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。

    この三輪君逆訳語田天皇の寵愛を受け、内外の事ことごとくを委ねられていた。
    これにより炊屋姫皇后後の推古天皇。と馬子宿禰は共に穴穂部皇子を恨むようになった。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条】
  • 用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。次の崩御記事が癸丑(9日)であるから丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。

    天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
    天皇は群臣に詔して「朕は三宝仏・法・僧。に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
    物部守屋大連中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
    蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
    皇弟皇子(すめいろどのみこ)「皇弟皇子とは穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟である」とある。豊国法師「闕名」とある。を連れて内裏に入った。
    物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。

    この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
    大連はこれを聞き、阿都(あと)「阿都とは大連の別業がある所の地名である」とある。に退いて人を集めた。

    中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
    遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
    しばらくすると事の成り難いことを知り、彦人皇子水派宮(みまたのみや)水派。此云美麻多。に帰伏した。

    舎人の迹見赤檮「迹見は姓であり、赤檮は名である。赤檮、此れを伊知毘と云う」とある。勝海連彦人皇子の所へ退くのを伺い、刀を抜いて殺した。

    大連は阿都の家から物部八坂大市造小坂漆部造兄を遣わして馬子大臣に言うには「群臣が私を謀ろうとしていることを聞いた。それで私は退いたのである」と。

    馬子大臣は土師八島連大伴毘羅夫連の所に遣わして、詳しく大連のことを話した。
    これにより毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を執り、槻曲(つきくま)の家「槻曲の家とは大臣の家である」とある。に行き、昼夜離れずに大臣を守護した。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
  • 用明天皇2年4月9日用明記では丁未年四月十五日。

    用明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】
  • 用明天皇2年5月

    物部大連の軍兵が三度も人々を驚愕させた。

    大連は他の皇子たちを顧みず、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとしていた。
    今に至り、狩猟に託けて立て替えようとした。
    密かに人を穴穂部皇子のもとに遣わして「願わくは皇子と淡路で狩猟がしたい」と言った。
    計画は漏れた。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年五月条】
  • 用明天皇2年6月7日

    蘇我馬子宿禰らが炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手土師連磐村的臣真噛に詔して「汝らは兵を整え、速やかに穴穂部皇子宅部皇子を誅殺せよ」と。

    この日の夜半、佐伯連丹経手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。

    兵士はまず(たかどの)の上に登って穴穂部皇子の肩を撃った。
    皇子は楼の下に落ちて、そばの部屋に走り入った。
    兵士らは灯火を挙げ誅殺した。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月庚戌条】
  • 用明天皇2年6月8日

    宅部皇子が誅殺される。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月辛亥条】
  • 用明天皇2年6月21日

    善信阿尼らが大臣に言うには「出家の道は、戒を以って本とします。願わくは百済に行って、戒法を学び受けたいと思います」と。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月甲子条】
  • 用明天皇2年6月

    百済の調使が来朝する。
    大臣が使人に言うには「この尼らを率いてお前の国に渡り、戒法を学ばせよ。終わったら返すように」と。
    使人は「我らは国に帰り、まず国王に申し上げます。その後に出発しても遅くはないでしょう」と答えた。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月是月条】
  • 用明天皇2年7月

    蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。

    泊瀬部皇子竹田皇子厩戸皇子難波皇子春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰巨勢臣比良夫膳臣賀拕夫葛城臣烏那羅らは軍勢を率いて、大連を討つために進発した。

    大伴連噛阿倍臣人平群臣神手坂本臣糠手春日臣「闕名字」とある。らは軍兵を率いて、志紀郡(しきのこおり)から渋河の家に至った。

    大連は自ら子弟と(やっこ)の軍を率いて、稲城を築いて戦った。
    大連衣揩(きぬすり)地名。にある朴の木の枝の間に上り、雨のように矢を射た。
    その軍は強く盛んで、家に満ち野に溢れた。

    皇子たちの軍と群臣の軍は、怯え恐れて三度退いた。

    この時に厩戸皇子(ひさご)のように髪を束ねて「古からの風俗で、年少の個、年十五、六の間は束髪於額(ひさごばな)にして、十七八の間は分けて角子(あげまき)にする。今もまた然り」とある。、軍の後に従っていた。
    推し測って「もしかすると負けてしまうのではないか。願わずに成功は難しいであろう」と口にすると、白膠木(ぬりで)白膠木。此云農利泥。を斬り、すぐに四天皇像を作って髪の上に置いた。
    そして誓いの言葉を発して「今もし我々が敵に勝つことが出来たら、必ずや護世四王(ごせしおう)の為に寺塔を建てましょう」と。

    蘇我馬子大臣もまた誓いの言葉を発して「凡そ諸天王・大神王たちが我々を助け守って勝利を得ることが出来れば、願わくは諸天と大神王の為に寺塔を建てて三宝を伝えましょう」と。
    誓いが終わると、様々な武器を備えて進撃した。

    ここに迹見首赤檮あり。
    大連を枝の下に射落し、大連とその子らを殺した。

    これにより大連の軍は忽ちに敗れた。
    兵士の悉くが黒衣を着て、広瀬(ひろせ)勾原(まがはら)で狩りをするふりをして散った。

    この役で、大連の子と一族は、或いは葦原(あしはら)に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者があれば、或いは逃亡先も知られぬ者もあった。

    時の人は「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹である。大臣は妄りに妻の計を用いて、大連を殺したのだ」と語り合った。

    平乱の後、摂津国に四天王寺(してんのうじ)を建てた。
    大連の奴の半数と家とを分けて、大寺の奴・田荘(たどころ)とした。

    田一万一代は百畝。迹見首赤檮に賜った。

    蘇我大臣もまた願いのままに、飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を起工した。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】
    • 用明天皇2年(6月 ~ 7月)

      丁未年六、七月。蘇我馬子宿禰大臣は物部守屋大連知恩院本は「物部室屋」の「室」に見せ消ちして「守」を遺筆補記。を討った。
      時に大臣の兵士は勝たずに退いた。
      そして上宮王は四王の像を挙げて兵士の前に立ち、誓って「もしこの大連を亡ぼすことが出来れば、四王の為に寺を造り、尊重して供養しよう」と言った。
      すると兵士は勝ちを得て、大連を殺害した。
      これにより難波に四天王寺を造ったのである。
      聖王が生まれて十四年のことである。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 用明天皇2年8月2日

    炊屋姫尊と群臣が勧めて泊瀨部皇子が即位して天皇となる。

    蘇我馬子宿禰を大臣とすることは同じである。
    卿大夫の位もまた元のとおりである。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年八月甲辰条】
  • 崇峻天皇元年

    百済国が使いに併せて、僧の恵総令斤恵寔らを遣わして仏舎利を献上した。

    百済国は恩率首信徳率蓋文那率福富味身らを遣わして調(みつき)を進上した。
    合わせて仏舎利、
    僧の聆照律師令威恵衆恵宿道厳令開ら、
    寺工(てらだいく)太良未太文賈古子
    鑪盤博士(ろばんのはかせ)将徳白昧淳
    瓦博士(かわらのはかせ)麻奈文奴陽貴文㥄貴文昔麻帝弥
    画工(えかき)白加を献上した。

    蘇我馬子宿禰は百済の僧らに請うて受戒の法を問うた。
    善信尼らを百済国の使い恩率首信らに授け、学問させるために出発させた。


    飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の祖樹葉の家を壊して、はじめて法興寺(ほうこうじ)を造った。
    この地を飛鳥の真神原(まかみはら)と名付けた。または飛鳥の苫田(とまだ)と名付けた。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇元年是歳条】
  • 崇峻天皇3年3月

    学問尼の善信らが百済より帰還して桜井寺(さくいのてら)に住んだ。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇三年三月条】
  • 崇峻天皇5年10月4日

    山猪の献上があった。
    天皇が猪を指差して「いつかこの猪の頸を斬るように、朕が憎いと思う人を斬ろう」と詔した。
    武器を多く備えて異常だった。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月丙子条】
    • 大伴の(みめ)小手子が寵愛の衰えたことを恨み、人を遣わして蘇我馬子宿禰に言うには「この頃、山猪を献上する者がありました。天皇は猪を指差して『猪の頸を斬るように、いつか朕が思う人を斬りたい』と詔されました。また内裏に多くの武器を用意しています」と。
      馬子宿禰はこれを聞いて驚いた。

      【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条 或本云】
  • 崇峻天皇5年10月10日

    蘇我馬子宿禰は天皇の詔を聞いた。
    自分を憎んでいることを恐れ、一族を集めて天皇弑逆を謀った。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月壬午条】
  • 崇峻天皇5年11月3日

    馬子宿禰が群臣を騙して「今日、東国から調物が献上される」と言った。
    そして東漢直駒を使って天皇を殺した。

    この日、天皇を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬った。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条】
  • 崇峻天皇5年11月5日

    早馬を筑紫の将軍の所に遣わして「内乱によって外事を怠ってはならない」と伝えた。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月丁未条】
  • 崇峻天皇5年11月(3日 ~ 29日)

    東漢直駒が蘇我の嬪河上娘「河上娘は蘇我馬子宿禰の女である」とある。を盗んで妻とした。
    馬子宿禰はたまたま河上娘に盗まれたことを知らずに死んだと思った。
    が嬪を汚したことが露見したために大臣に殺された。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月是月条】
  • 崇峻天皇5年12月8日

    推古天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀 崇峻天皇五年十二月己卯条】
  • 推古天皇元年4月10日

    推古天皇厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立て、政を摂らせて万機の悉くを委ねる摂政。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年四月己卯条】
  • 推古天皇2年2月1日

    推古天皇太子及び大臣に詔して三宝仏・法・僧の三つ。を興隆させるように命じる。
    この時に諸臣連らは各々君親の恩の為に競って仏舎を造った。即ちこれを寺という。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二年二月丙寅朔条】
    • 上宮厩戸豊聡耳命は島大臣と共に天下の政を助けて三宝を興隆させた。
      元興(がんごう)四天皇(してんのう)知恩院本は「天四皇」だが改めた。などの寺を起した。

      【上宮聖徳法王帝説】
    • 推古天皇13年5月

      少治田天皇の御世の乙丑年五月に聖徳王と島大臣が共に議って仏法を建立し、更に三宝を興した。
      即ち五行に准じて爵位を定めた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇11年2月4日

    来目皇子が筑紫で薨じた。

    天皇はこれを聞いて大いに驚き、皇太子と蘇我大臣を召して言うには「征新羅大将軍来目皇子が薨じた。大事に臨んだが遂げることは出来なかった。甚だ悲しいことである」と。
    そして周芳(すおう)国の娑婆(さば)に殯した。土師連猪手を遣わして殯の事を司らせた。
    それで猪手連の孫を娑婆連(さばのむらじ)というのは是の縁からである。

    後に河内の埴生山岡上(はにゅうのやまのおかのえ)に葬られた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年二月丙子条】
  • 推古天皇13年4月1日

    天皇皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願を発てて、はじめて(あかがね)(ぬいぎぬ)の丈六の仏像を各一躯造った。
    そして鞍作鳥に命じて造仏の(たくみ)とした。
    この時に高麗(こま)国の大興王が日本国の天皇が仏像を造ったと聞いて、黄金三百両を貢上した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年四月辛酉朔条】
  • 推古天皇15年2月9日

    推古天皇が詔して「朕が聞くところによると、昔、我が皇祖の天皇たちが世を治めたまうことは、天地に恐縮して神祇を厚く敬い、遍く山川を祀り、遥か乾坤に心を通わせたという。これにより陰陽は調和して、造化は共に整った。朕の世になっても神祇の祭祀を怠ってはならない。群臣は共に心を尽くして神祇を拝するように」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月戊子条】
  • 推古天皇15年2月15日

    皇太子及び大臣が百寮を率いて神祇を祀り拝した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月甲午条】
  • 推古天皇18年10月9日

    新羅・任那の使人が朝庭で拝礼した。

    秦造河勝土部連菟を新羅の導者とし、間人連塩蓋阿閉臣大籠を任那の導者とする。
    共に先導しながら南門から入って中庭に立った。
    この時に大伴咋連蘇我豊浦蝦夷臣坂本糠手臣阿倍鳥子臣は共に坐位から立って庭に伏した。
    両国の客は各々再拝して使いの旨を述べた。
    四大夫は進み出て大臣に伝えた。
    大臣は坐位から立って政庁の前で聞いた。

    諸客は禄を賜った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月丁酉条】
  • 推古天皇20年1月7日

    推古天皇が群卿のために酒宴を催す。

    この日、大臣の寿ぎの歌に曰く

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    と。
    天皇が答えて曰く

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    と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年正月丁亥条】
  • 推古天皇20年2月20日

    皇太夫人堅塩媛桧隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬される。

    この日に(かる)の街中で(しのびごと)を奏上した。
    第一に阿倍内臣鳥が天皇の言葉を誄して霊に供え物をした。明器(みけもの)明衣(みけし)の類一万五千種である。
    第二に諸皇子らが順に誄した。
    第三に中臣宮地連烏摩侶が大臣の言葉を誄した。
    第四に大臣が多数の支族を率いて、境部臣摩理勢氏姓のもと堅塩媛は蘇我氏。を誄させた。
    時の人が云うには「摩理勢烏摩侶の二人の誄はよかった。ただ鳥臣の誄はよくなかった」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年二月庚午条】
  • 推古天皇22年8月

    病に臥す。
    馬子の為に男女合わせて千人が出家する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十二年八月条】
    • 推古天皇34年8月

      推古天皇卅四年秋八月に島大臣が病に臥す。
      大臣の為に男女并せて一千人■■■■「■」は欠文。出家云々であろう。

      また本に云わく、廿二年甲戌秋八月推古天皇22年8月。に大臣が病に臥して、卅五年夏六月辛丑推古天皇35年6月20日。に薨じたという。

      【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
  • 推古天皇28年

    皇太子と議って、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十八年是歳条】
    • 推古天皇28年2月11日

      上宮厩戸豊聡耳皇太子命大臣蘇我馬子宿禰が勅を受け、先代旧事・天皇紀及び国記、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本紀を撰録する。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇二十八年二月甲辰条】
  • 推古天皇29年2月5日

    皇太子厩戸豊聡耳皇子命斑鳩宮(いかるがのみや)で薨じた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月癸巳条】
  • 推古天皇30年当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    新羅が任那を討った。任那は新羅に附属した。

    天皇は新羅を討とうとした。
    大臣に謀り、群卿に問うた。
    田中臣が答えて言うには「討伐を急ぐのは良くないと存じます。先ずは状況を察し、逆らったことがはっきりした後に討伐しても遅くはないでしょう。試しに使いを遣わして消息を調べさせて頂きたいと存じます」と。
    中臣連国が言うには「任那は元々我が国の官家(みやけ)であり、新羅が攻めて奪ったのです。戦備を整えて新羅を征伐し、任那を取り返して百済に附属させましょう。新羅から奪い返すことに勝ることがありましょうか」と。
    田中臣が言うには「そうではない。百済は反覆の多い国である。道の間すらも欺くのだ。凡そ彼らの言葉は信じられない。よって百済に附属させてはならない」と。
    このようにして征討は果たせなかった。

    そこで吉士磐金を新羅に遣わし、吉士倉下を任那に遣わして任那の事を問わせた。

    新羅国主は八大夫を遣わして、新羅国の事を磐金に説明した。
    また任那国は倉下に説明した。
    そして約束して言うには「任那は小国ですが天皇に附属しています。どうして新羅がたやすく得ることが出来ましょうか。いつも通り内官家(うちつみやけ)と定め、どうか煩いとはなさりませんように」と。

    そこで奈末智洗遅を遣わして吉士磐金を副えた。
    また任那人達率奈末遅吉士倉下に副えて両国の調を奉った。

    しかし磐金らが帰還しないうちに、その年に大徳境部臣雄摩侶小徳中臣連国を大将軍とし、小徳河辺臣禰受小徳物部依網連乙等小徳波多臣広庭小徳近江脚身臣飯蓋小徳平群臣宇志小徳大伴連「闕名」とある。小徳大宅臣軍を副将軍とし、数万の兵を率いて新羅を征討させた。

    時に磐金らは共に港に集まり、出航するために風波の様子をうかがった。
    船軍は海に満ちた。
    両国の使人はこれを遠くから眺めて愕然とした。そして引き返して堪遅大舎を代わりに任那の調の使いとして奉った。

    磐金らが相談して「軍を起こせば前の約束に背いてしまう。こうなっては任那の事を成すことは出来ない」と言うと、出航して帰国した。

    ただ将軍らは任那に至り、相談して新羅を襲撃しようとした。
    新羅国主は軍勢が多いと聞いて降伏を願い出た。
    将軍らは共に議って上表した。天皇はこれを許した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年是歳条】
  • 推古天皇30年11月当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    磐金倉下らが新羅から帰国した。
    大臣がその状況を尋ねた。
    答えて「新羅は命を承り恐懼しておりました。そして専使に命じて両国の調を奉りました。しかし船軍が来るのを見て朝貢の使者はまた帰還してしまいました。ただ調は献上します」と。
    大臣は「惜しいことをした。早く軍勢を遣わしたことは」と言った。
    時の人が言うには「この軍事は境部臣と阿曇連が先に新羅の賄賂を多く受け取った為、大臣に勧めたのだ。それで使いの旨を待たずに征伐を急いだのだ」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年十一月条】
  • 推古天皇31年4月3日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    一人の僧があり、斧で祖父を打った。
    これを聞いた天皇は大臣を召すと、詔して「出家する者はひたすらに三宝に帰して戒法を保つというのに、なぜ容易に悪逆を犯すのか。聞くところによると、僧が祖父を打ったという。全ての寺の僧尼を集めて推問せよ。もし事実ならば重罪とする」と。
    それで僧尼を集めて推問した。
    そして悪逆な僧尼を集めて罰した。

    百済の観勒僧が上表して言うには「仏法は西国から漢にやってきて三百年が経った後に百済国に伝わりました。僅か百年でございます。我が王は日本の天皇の賢哲を聞いて、仏像と内典を献上しました。まだ百年に満たないのでございます。それで今は僧尼が法律に慣れておらず、容易に悪逆を犯してしまうのでしょう。ですので多くの僧尼は惶懼して、なすべきことを如らないのでございます。どうかその悪逆な者を除き、それ以外の僧尼は全て罪になさらぬようお願い致します。これは大きな功徳になります」と。
    天皇は聞き入れた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月戊申条】
  • 推古天皇31年10月1日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    大臣が阿曇連「闕名」とある。阿倍臣摩侶の二臣を遣わし、天皇に奏上させて「葛城県(かずらきのあがた)は元々私の本貫です。それでその県に因んで姓名としました。願わくは永久にその県を賜り、私が封じられた県としたいと思います」と。

    そこで天皇は詔して「朕は蘇我から出ている。大臣はまた朕の舅である。それで大臣の言葉は、夜に申せば夜も明かさず、日中に申せば日が暮れないように、どんな言葉でも用いてきた。しかし今朕の世に当り、この県を失えば、後の主君が『愚かな女が天下に臨んでその県を失った』と言うであろう。朕が独り不賢と言われるばかりか、大臣もまた不忠であると言われるであろう。これは後世の悪名となる」と聞き入れることはなかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年十月癸卯朔条】
  • 推古天皇34年5月20日

    薨じる。
    桃原墓(ももはらのはか)に葬られる。

    大臣は稲目宿禰の子である。
    性質は武略があり、また弁才があった。
    三宝を敬い、飛鳥河の傍に家居した。
    庭には小さな池を掘り、池の中には小島を造った。
    それで時の人は島大臣といった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年五月丁未条】