安閑天皇
- 名前
- 漢風諡号:安閑天皇(あんかんてんのう, あんかんてんわう)
- 和風諡号:廣國押武金日天皇【日本書紀】(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)広国押武金日天皇
- 廣國排武金日尊【日本書紀】(ひろくにおしたけかなひのみこと)広国排武金日尊
- 勾大兄皇子【日本書紀】(まがりのおおえのみこ, まがりのおほ𛀁のみこ)
- 勾大兄廣國押武金日天皇【日本書紀】(まがりのおおえひろくにおしたけかなひのすめらみこと, まがりのおほ𛀁ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)勾大兄広国押武金日天皇
- 廣國押建金日命【古事記】(ひろくにおしたけかなひのみこと)広国押建金日命
- 勾大兄廣國排武金日尊【先代旧事本紀】(まがりのおおえひろくにおしたけかなひのみこと, まがりのおほ𛀁ひろくにおしたけかなひのみこと)勾大兄広国排武金日尊
- 勾大兄廣國排武金尊校異【先代旧事本紀】勾大兄広国排武金尊
- 勾大兄廣國掛武金尊校異【先代旧事本紀】勾大兄広国掛武金尊
- 廣國押武金日尊【先代旧事本紀】(ひろくにおしたけかなひのみこと)広国押武金日尊
- 廣國樹武金日尊校異【先代旧事本紀】広国樹武金日尊
- 廣國掛武金尊校異【先代旧事本紀】広国掛武金尊
- 勾金橋宮御宇天皇【先代旧事本紀】(まがりのかなはしのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 継体天皇6年12月29日)
- 没年月日
- 安閑天皇2年12月17日
- 父
継体天皇 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
- 母
目子媛 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
- 先祖
- 配偶者
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第27代
天皇
- 第27代
- 出来事
-
継体天皇6年12月
百済が使いを遣わして朝貢した。
別に上表文を奉って任那国の
上哆唎 ・下哆唎 ・娑陀 ・牟婁 の四県を要請した。
哆唎国守 の穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
物部大連麁鹿火を勅使とした。物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇応神天皇に授けました。それで大后気長足姫尊神功皇后と大臣武内宿禰が国毎に
官家 を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
大連は諌めに従った。こうして勅使を改めた。
賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。大兄皇子後の安閑天皇。は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】
驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝応神天皇の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。 -
継体天皇7年9月
勾大兄皇子は自ら春日皇女を迎えた。
月夜に清らかに語り合い、思わず夜が明けた。
歌を作る雅な心がすぐに形となり、口ずさんで言うには「
野 絁 磨 倶 儞 都 磨 磨 祁 哿 泥 底 播 屢 比 能 哿 須 我 能 倶 儞 儞 倶 波 絁 謎 鳴 阿 利 等 枳 枳 底 與 慮 志 謎 鳴 阿 利 等 枳 枳 底 莽 紀 佐 倶 避 能 伊 陀 圖 鳴 飫 斯 毗 羅 枳 倭 例 以 梨 魔 志 阿 都 圖 唎 都 麼 怒 唎 絁 底 魔 倶 囉 圖 唎 都 麼 怒 唎 絁 底 伊 慕 我 堤 鳴 倭 例 儞 魔 柯 斯 每 倭 我 堤 嗚 麼 伊 慕 儞 魔 柯 斯 每 麼 左 棄 逗 囉 多 多 企 阿 藏 播 梨 矢 泪 矩 矢 慮 于 魔 伊 禰 矢 度 儞 儞 播 都 等 唎 柯 稽 播 儺 倶 儺 梨 奴 都 等 利 枳 蟻 矢 播 等 余 武 婆 絁 稽 矩 謨 伊 麻 娜 以 幡 孺 底 阿 開 儞 啓 梨 倭 蟻 慕 」と。
妃が答えて歌った。「
【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年九月条】莒 母 唎 矩 能 簸 覩 細 能 哿 波 庾 那 峨 例 倶 屢 駄 開 能 以 矩 美 娜 開 余 嚢 開 謨 等 等 陛 嗚 麼 莒 等 儞 都 倶 唎 須 衞 陛 嗚 麼 府 曳 儞 都 倶 唎 符 企 儺 須 美 母 盧 我 紆 陪 儞 能 朋 梨 陀 𦤶 倭 我 彌 細 麼 都 奴 娑 播 符 以 簸 例 能 伊 開 能 美 那 矢 駄 府 紆 嗚 謨 紆 陪 儞 堤 堤 那 皚 矩 野 須 美 矢 矢 倭 我 於 朋 枳 美 能 於 魔 細 屢 娑 佐 羅 能 美 於 寐 能 武 須 彌 陀 例 駄 例 夜 矢 比 等 母 紆 陪 儞 泥 堤 那 皚 矩 」 -
継体天皇7年12月8日
継体天皇が詔して「朕は
【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十二月戊子条】天緒 を承け、宗廟を保つことに兢兢業業としている。この頃は天下安静・国内平穏で豊年が続き、頻りに国を富ましてくれる。なんと喜ばしいことか。摩呂古一種の愛称であり、皇子を『まろこ』という例は他にもある。よ。朕の心を八方に示してくれた。なんと盛んなことか。勾大兄が我が教化を万国に照らすこと。日本 は平和で、名は天下をほしいままにしている。秋津は赫々として誉れは高い。宝とするところは賢であり、善を最も楽しむ。聖化は遠く栄え、大功は長く懸かる。真にお前の力である。春宮にいて朕を助けて仁を施し、私の至らぬところを補ってくれ」と。 -
継体天皇8年1月
太子妃春日皇女は朝遅く出てきて異常なところがあった。
太子は疑う心があって殿に入って覗いてみた。妃は床に伏して泣いていた。
悶え苦しんで耐えられない様子だった。
太子は怪しんで「今朝泣いていたが、何の恨みがあるのか」と問うた。
妃が言うには「他ではございません。私が悲しむのは、飛ぶ鳥も子を育てるために木の末に巣を作ります。その愛情が深いからでございます。地を這う虫も子を守るために土の中に穴を掘ります。その守りを厚くします。ましてや人に至れば、どうして考えないで居られましょうか。後継ぎが無い恨みは太子に集まります。私の名も従って絶えてしまうでしょう」と。
太子は心を痛めて天皇に奏上した。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇八年正月条】
継体天皇が詔して「朕の子麻呂古一種の愛称であり、皇子を『まろこ』という例は他にもある。。お前の妃の言葉は深く理に適っている。そんなことはどうでもいいと答えて、慰めることが無くてよいのか。匝布屯倉 を賜わり、妃の名を万世に表しなさい」と。 -
継体天皇25年2月7日
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継体天皇25年2月
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安閑天皇元年1月
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年正月条】大倭国勾金橋 に遷都して宮の名とした。-
【古事記 下巻 安閑天皇段】勾之金箸宮 にて天下を治めた。
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安閑天皇元年3月6日
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この天皇は御子が無かった。
【古事記 下巻 安閑天皇段】
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安閑天皇元年4月1日
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安閑天皇元年5月
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安閑天皇元年7月1日
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安閑天皇元年10月15日
天皇は大伴大連金村に勅して「朕は四人の妻を召し入れたが、今に至るまで嗣子がいない。万世の後に朕の名は絶えてしまう。大伴の伯父よ。一計を案じてくれ。いつもこれを思うと憂慮に堪えないのだ」と。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年十月甲子条】
大伴大連金村が奏上して「このことはまた私が憂い申し上げていることでございます。我が国家の天下に王たる者は、お世継ぎの有無を論じるのではなく、必ず物によって名を為します。どうか皇后や次の妃の為に屯倉の地を建て、後世に留めて跡に顕しましょう」と。
詔して「よろしい。速やかに設けよ」と。
大伴大連金村が奏上して「小墾田屯倉 と国ごとの田部 屯倉の田を耕作する農民。を紗手媛に賜りますよう。桜井屯倉 (ある本では茅渟山屯倉 を加え賜うという)と国ごとの田部を香香有媛に賜りますよう。難波屯倉 と郡 ごとの钁丁 田部と同義か。を宅媛に賜りますよう。これらを以て後に示し、昔を思うようにしましょう」と。
詔して「申すままに施行せよ」と。 -
安閑天皇元年閏12月4日
三島 に行幸した。大伴大連金村が従った。天皇は大伴大連を遣わして、良田を県主飯粒に問うた。
県主飯粒は喜ぶこと限りなく、謹しみ敬って誠を尽くした。そして上御野 ・下御野 ・上桑原 ・下桑原 、併せて竹村 の地、全て合わせて四十町を献上した。
大伴大連が勅を受けて言うには「国中には封土に非ざるはなく、天下には王域に非ざるはない。それで先の天皇は御名を顕し、広大な天下に副い、光り麗しい日月のように長駕して民を愛撫し、都の外に出ては国内を磨き照らして限り無く充たされた。御徳は天地の果てまで達し、四方八方まで行き渡った。礼を定めて功成ることを告げ、楽を作って政治が定まっていることを明らかにした。福に応え誠に至れば、祥慶は往歳に符合する。今お前味張は国内の人民一人に過ぎない。急に王地を惜しみ、勅使を軽んじて背いた。味張は今後、郡司に預かることはない」と。
県主飯粒は喜びと恐懼が入り交じった。
そしてその子の鳥樹を大連に献じて僮竪 少年の従者。とした。
ここに大河内直味張は恐れ畏まって後悔した。そして地に伏して冷や汗を流した。
大連に言うには「愚民の罪は万死に当ります。伏してお願い申し上げます。郡ごとに钁丁 を春には五百丁、秋には五百丁、天皇に奉献致します。子々孫々に至るまで絶やしません。これによって生を乞い、永く戒めと致します」と。別に
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年閏十二月壬午条】狭井田 六町を大伴大連に賂した。
三島 の竹村屯倉 には河内県 の部曲 を田部とすることの始まりがここに起こったのであろう。 -
安閑天皇元年閏12月
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安閑天皇元年閏12月
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安閑天皇2年1月5日
詔して「この頃は連年穀物が実り、国境の憂いもない。万民は生業を楽しみ、飢餓も免れている。仁風は全土に広まり、名声は天地を覆っている。内外は清み通り、国家は富み栄えている。朕の喜びも甚だしい。五日間大いに酒宴を催して天下と歓びを交えよ」と。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年正月壬子条】 -
安閑天皇2年4月1日
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年四月丁丑朔条】勾舎人部 ・勾靭部 を置く。 -
安閑天皇2年5月9日
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年五月甲寅条】筑紫 の穂波屯倉 ・鎌屯倉 、豊国 の腠碕屯倉 日本書紀通証など、「腠」を「湊」の誤りとする説もある。・桑原屯倉 ・肝等屯倉 取音読。・大抜屯倉 ・我鹿屯倉 我鹿。此云阿柯。、火国 の春日部屯倉 、播磨国 の越部屯倉 ・牛鹿屯倉 、備後国 の後城屯倉 ・多禰屯倉 ・来履屯倉 ・葉稚屯倉 ・河音屯倉 、婀娜国 の胆殖屯倉 ・胆年部屯倉 、阿波国 の春日部屯倉 、紀国 の経湍屯倉 経湍。此云俯世。・河辺屯倉 、丹波国 の蘇斯岐屯倉 皆取音。、近江国 の葦浦屯倉 、尾張国 の間敷屯倉 ・入鹿屯倉 、上毛野国 の緑野屯倉 、駿河国 の稚贄屯倉 を置く。 -
安閑天皇2年8月1日
詔して国々の
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年八月乙亥朔条】犬養部 を置く。 -
安閑天皇2年9月3日
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年九月丙午条】桜井田部連 ・県犬養連 ・難波吉士 らに詔して「屯倉の税を司れ」と。 -
安閑天皇2年9月13日
大連に勅して「牛を
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年九月丙辰条】難波 の大隅島 と媛島松原 に放ち、名が後に伝わることを願おう」と。 -
安閑天皇2年12月17日安閑記では乙卯年三月十三日。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年十二月己丑条】勾金橋宮 で崩じる。
時に年七十。-
安閑天皇4年3月13日
乙卯年三月十三日に崩じた。
【古事記 下巻 安閑天皇段】
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安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)
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御陵は
【古事記 下巻 安閑天皇段】河内之古市高屋村 にある。 -
安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)
河内古市高盧丘陵に葬られる。
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 安閑天皇二年十二月是月条】
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